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2013年1月13日 星期日

一個福島酪農的自殺

  以下為Facebook上看到的文章(原作者:Taro Aizu),本人以不才的日文略為翻譯了一下:

  那天深夜,我和家兄兩人談到核汙染的事情。那時候家兄提到住在福島核電廠附近,一個酪農的事情,那讓我非常震驚。隔天,我為了求證而翻了許多雜誌,查閱了很多資料,得到了以下的內容。

   一個酪農和他菲律賓妻子、小孩子平靜地住在福島核電廠附近的小村莊。他養了40頭乳牛,為了讓小孩子、家人有更好的生活,每天和妻子努力工作著。一家人省吃儉用,還借錢來擴大農場規模。小孩子開學時還特地買了新書包,讓他高興地迎接四月的開學典禮。

  但3月11日福島核電廠因海嘯而爆炸,銫137等輻射塵不斷地外漏,村子、農田、森林無聲無息地被汙染。這種汙染是看不到、聽不到、聞不到。

  酪農每天收割的牧草上也有銫附著,也因拿這些草每天餵給不知情的牛,牛奶也都還有超標的銫,酪農找不到改善辦法,只能每天每天把牛奶倒掉。

  輻射汙染已是眾人皆曉,那位酪農讓妻子和小孩回菲律賓避難,村裡的小孩們也都四散去避難,結果他的小孩沒辦法看到開學典禮。但他為了家人的生活費,繼續努力持續著酪農的工作。

  但牛奶裡銫的含量並沒有他預期的減少,最後酪農放棄了,為了生計,他也去了菲律賓。但到了菲律賓後,他的英文不行,當地話也不會講,並沒有辦法找到工作,所以他5月就一個人回到了日本。但家已經回不去了,他成了一棵失根的樹。

  最後,他在黑板上寫下「如果沒有核電廠就好了」的字樣後,就在新的工寮內自殺了。福島的酪農,享年54歲。



  私達のふるさと、福島(7)

  その夜遅く、私は兄と二人だけになって、放射能汚染について話し合った。その時兄が言ったことは、私にはとてもショックだった。それは原発の近くに住むある酪農家の話だった。私は翌日、念のためにいろいろな雑誌を読みながら、彼の事件を詳しく調べた。その事件は次のような内容だった。

  福島原発の近くの小さな村に、ある酪農家がフィリピン人の妻、二人の息子といっしょに平和に暮らしていました。彼は四十頭の乳牛を飼いながら、妻と二人で毎日一生懸命に働き、二人の息子にも恵まれたので、家族みんなで幸福に暮らしていました。

  ただ子供達がまだ小さかったので、その生活費を何とか稼ぎだそうと思い、借金をしながらも、新しい作業場を建て、酪農の事業を拡大しました。さらに小学校に入学する息子のために新しいランドセルを買って、四月にある入学式を楽しみにしていました。

  しかし三月十一日に起きた巨大津波が原因で、福島原発が突然爆発しました。原発から漏れ出たセシウムは、毎日毎日雨風に流され、村や田畑や森林を静かに汚染して行きました。その汚染は目で見ることもできず、耳で聞くこともできず、鼻で嗅ぐこともできません。

  そして彼が毎朝刈り取っている牧草の上にも、セシウムの雨風が付着しました。その刈り取られた牧草は、何も知らない牛たちに与えられたので、牛達のミルクには基準値以上のセシウムが含まれたのです。彼は仕方なくそのミルクを毎日毎日捨てました。

  放射能汚染が大人よりも子供たちに危険だと知ったので、その酪農家は妻と息子を、フィリピンへ避難させました。村の子供達もみんなどこかに避難し、結局彼は息子の入学式を見ることができませんでした。

  でも彼は家族の生活費を稼ぐために村に残り、また酪農の仕事を一生懸命に続けました。それでもミルクに含まれるセシウムは、思うようには減らず、ついに酪農をあきらめ、自分も家族といっしょに暮らすために、フィリッピンへ出発したのです。

  しかしフィリッピンに行っても、彼は英語もタガログ語も話せなかったので、仕事を見つけることはできませんでした。そして五月になると、彼だけが一人日本へ戻ってきたのです。でももう牛達も家族も村にはいませんでした。彼は根っこを失くした一本の木でした。

「原発さえなければ」
と黒板に書き残し
新しい作業小屋で亡くなられた
福島の酪農家
享年54歳

  核電是不是很安全?車諾比、三浬島、福島,台電的核三廠也差點出事。撇開「風險」不談,咱們來談談發電成本,台電跟你說核電很便宜,是因為它只敢用核電廠建造費用來換算發電成本,對於後面還要上千億的核廢料處理費用、上兆的運轉年限到了的廢爐費用一個字都不敢提,台電只敢讓你知道「台電想讓你知道的」。工程品質低落、建物漏洞百出的核四廠即將商轉,你可以選擇不吭聲,如果你像馬英九一樣有外國護照能逃的話。